松山英樹「来年はメジャーで活躍を」 東北福祉大で報告会
フロム・センダイ(前編) 松山英樹とゆかりの地を歩く
進学の誘い文句
東北福祉大のゴルフ部は今年が創立30周年。1990年代に星野英正(ツアー3勝)の入学をきっかけに“日本一”を争う常連校になり、谷原秀人、宮里優作、池田勇太らトッププロを輩出した。松山がその門を初めてたたいたのは明徳義塾高3年のとき。2009年8月、「日本ジュニア」で2位に4打差をつけて圧勝した直後だった。
「日本ジュニアの後、本当は愛媛に帰る予定だったんです。それが(会場の埼玉)霞ヶ関カンツリー倶楽部から車で仙台までスタッフの方が送ってくれた。当時、試合でいなかった富村真治さん(松山より1学年上。2012年にプロ転向)の部屋に泊まらせてもらいました。その後、9月以降にもう一回来てココがいいなあと思いました」
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当初は高校卒業時のプロ転向を模索していた。しかし、「3年生の時に『日本アマチュア選手権』で、予選ラウンド敗退してしまったことが気になっていた」という。「このままでは並のプロゴルファーにしかなれない」という誘い文句で進学を勧めたのは阿部靖彦監督。その言葉の真意を松山は入学直後に実感したという。
「大学に入って『レベルが違う…』と思いました。先輩たちと合宿に行ったときに『やっぱりうめえな…』って。小学校から中学校に上がった時、中学生から高校生になった時、誰もがそう思うはずだけど、自分はその時以上に大学に入った時にそう思った。藤本佳則さんはその前に一緒に回ったことがあって、塩見好輝さん、(富村)真治さんも有名だったから名前は知っていたけれど、他の先輩たちもうまくて。大学ゴルフ部のステップは全然違ったのを覚えています」
ゴルフ部員の一員として腕を磨いたあの頃。周囲のレベルの高さに驚いたと同時に、同じ寮生活を送っていた高校時代とは大きな変化があった。
「もちろん練習環境も良かったけれど、それまでとは時間の使い方が違った。明徳義塾の時は中高生ということもあって、縛られている時間が多くて。それが大学に入ると、結構自分の時間がある。その時間をどう過ごすか、ということを考えていた」
部活動の時間としてチームが集まるのは週3日。午後に近隣の泉国際GCで球拾いをしてから、一般営業後に9ホールを回り、トレーニングを一緒にする時間があった。その時間帯と学業以外は基本的に自由である。寮の近くには専用のチッピングとパッティングの練習場があり、自主練習が可能だ。
「朝は自分でトレーニングをした。練習ではアプローチ・パターを勝手に始めていると、部員が集まってきてみんなでワイワイやっていた。泉国際や練習場で球打ちをして、みんなでご飯を食べたり、またアプローチ・パターをやったり。夜はボーリングにもよく行っていましたね(笑)」
雪も思い出
部員は当時から岩田寛(ツアー2勝)の父が運営した練習場と、寮に近い宮城ゴルフガーデンというドライビングレンジで日々ボールを打ち込んでいる。無制限に練習できるのと引き換えに、部員は営業時間外にボール拾いをするのが条件だ。200yd以上の練習場で、一人ひとりカゴを持って手で拾う。積雪時は大変だ。銀世界になったフィールドで、雪かきをしてから球を回収していく。日の光を集めて、雪を早く溶かすために一面に炭をまくこともあった。だからジャージは汚れてもいいように黒であることが必須だった。
「確かに仙台は雪で練習できないときもある。でも、オレはそれも好きだった。“ボールを打てない日”があっても、明徳の時は自分が好きなようにショットを打てるのが1時間半くらいだったんです。練習場がクローズでも空いている別のところを探した。雪かきもそうですけど、みんなでやる冬場のトレーニングも好きだった。負けたくない人と一緒にやるのが良いんですよね。『自分はこの部分、このトレーニングではこの人に勝っている』と分かる。自分が『この部分で負けている』というのを見られるのがうれしかった」
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桂川洋一(かつらがわよういち) プロフィール
1980年生まれ。生まれは岐阜。育ちは兵庫、東京、千葉。2011年にスポーツ新聞社を経てGDO入社。ふくらはぎが太いのは自慢でもなんでもないコンプレックス。出張の毎日ながら旅行用の歯磨き粉を最後まで使った試しがない。ツイッター: @yktrgw