追悼・島田幸作JGTO前会長
2008/11/10 09:26
選手時代は公式戦にすべて勝ついわゆる当時のグランドスラムを達成。通算15勝。輝かしい成績を残したあと99年にPGAから競技部門を離して発足した日本ゴルフツアー機構の初代チェアマンに就任。PGAのプロテストを受験しなくてもトーナメントに出られる制度を作り、「世界に通用する選手の育成」をスローガンに底辺拡大に力を尽くし、現在の男子ツアーの礎を築いた。
しかしツアーのスタッフにはそんな功績の数々よりも、まず頭に思い浮かぶのは温かなその笑顔だ。どんな若輩者にも偉そうな素振りを見せたことがなかった。その気の遣いようはむしろこちらが恐縮してしまうくらいで、常に自ら歩みより、分け隔てなく声をかけて歩いた。食事に行けば「ちゃんと食べているか」と隅々まで目を配り、飲み物をついでくれた。拠点を置いていた兵庫近辺のトーナメントは必ず、自宅近くのパン屋さんの名物の食パンを大量に買い込んで会場にやってきた。ニコニコと差し出して「ここのパンは、ほんまにごっつい美味いんや。あんたのお母さんに持って帰ってあげて」と、焼きたてのホカホカをスタッフに配ってくれた。出張先で一緒に帰路につくスタッフには「いつもようやってくれているせめてものお礼や」と、ポケットマネーで持ちきれないほどの土産を持たせてくれた。顔を合わせるたびに「体調は大丈夫か、困ったことはないか」と尋ねる。そして最後に必ず「いつもご苦労さん、本当にありがとうね」と、優しい声で付け足した。
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会長職を退いた直後の今春、体調を崩して自宅療養中と聞いて家を訪ねたときも、道に迷っていないかと気にしてわざわざ路地に出て待っていてくれたばかりか「あまり調子が良くなくてね。お茶も出さんとごめんね」と、済まなそうに頭を下げたものだ。いま思うとそのときにはかなり症状が進んでいて相当、体もえらかったのだろうと思う。見舞いにかこつけて呑気に押しかけ、かえって心労を増やしてしまう結果となってしまったのに、逆に謝られてしまった。あれほど気にかけてもらったのに、こちらのほうからは「長い間、お疲れ様でした」と、一言も伝えられないまま私たちの前から去ってしまった。
歴代の選手会長の横田真一は「遼くんもまだ出て来ていない時期で、就任直後はマイナスの要素ばかり。重責をお願いしたことが、相当のストレスになったのだと思う」と振り返ったが、近しいスタッフにさえ弱音を吐くことはほとんどなかった。優しい笑顔の陰で重職に歯を食いしばり、コツコツと地道に築いてきた10年間が石川遼というスターを生んだことは間違いない。
亡くなったのは11月3日の月曜日。地元・兵庫県で行われたマイナビABCチャンピオンシップの翌日だった。恩義に厚く、曲がったことが大嫌い。そのくせ涙もろく、感動のシーンにはすぐに目を赤くして感激していた島田前会長は、プロ転向後初となる石川のツアー優勝の瞬間を見届けることができたのだろうか。17歳のこぼれるようなあの笑顔に何を思っただろうか。せめて最後は喜びの中で旅立ったことを祈るばかりだ。