今年の“最強ツアー”は? 3大ツアーの主役たちが火花
豪国S.コンラン、「マサ!今まで本当に待たせたね」/久光製薬KBCオーガスタ
9年目で勝ち取った初優勝、ウィニングボールは恩人キャディに
先に通算7アンダーでホールアウトしたコンランは、18番グリーンサイドで食い入るようにそれを見つめていた。
1打差2位の谷口徹のバーディパット。左奥から7メートルのチャンスはしかし、下りの難しいラインだ。応援にかけつけてくれた友人、知人たちが口を揃えて「大丈夫、きっとあのパットは決められない」と言ってくれたが、本人は結果を見るまでは安心できなかった。
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その週、谷口が「パットが絶好調」と話しているのを聞いていた。ビッグチャンスを前にして、谷口ほどの選手がみすみすそのパットを外すとは、どうしても思えなかったのだ。
プレーオフを覚悟して、固唾をのんで見守ったパットはしかし、カップをそれていった。
途端にゆるんだ、眉間のシワ。安堵のため息。
日本ツアー9年目の初優勝をもぎ取った瞬間、すぐにポケットからウィニングボールを取り出した。キャディの西崎将之さんの手に握らせて言った。
「マサ、君のおかげでやっと、この日を迎えることができたよ・・・。待たせてほんとうに悪かったね!」
日本ツアーに本格参戦を果たした1997年から、ほとんどの試合でバッグを担いでくれた西崎さん。迷わず贈った記念のボールは、辛抱強く、ともにこの日を待ち続けてくれた恩人へのせめてもの感謝の気持ちだった。
「優勝が決まった瞬間、『マサ、これ受け取ってくれよ』って・・・。すごく嬉しかったけど、でも、本当にもらっていいのかな??あとで奥さんにも一応、聞いてみないと叱られるかも・・・(笑)」と、西崎さんは戸惑う。
しかし、コンランは「いいんだよ。妻(バージニア)は、そんなことで怒ったりしないさ。マサ、長い間支えてくれて、ほんとうにありがとう」と、感謝の気持ちで一杯だった。
「もうあんな地味な日々に戻りたくない」
1990年に母国オーストラリアでプロ転向を果たしたものの、しばらくは鳴かず飛ばず。生活のために1992年からの1年間、大学時代に取得した税理士の資格を生かして、やはり税理士の父・ダリルさんの家業を手伝っていた時期があった。
度つきのメガネに、色白の肌。風貌を裏切らないその職業もコンランにとっては、退屈な日々でしかなかったという。
「僕はお金の計算をしているより、やっぱり各地を転々とするツアー生活が合っている」。改めて稼ぎ場を求め、故郷のニューサウスウェールズを飛び出した。
以来、母国ツアーやアジアンツアーなど、転々としながら辿り着いたのが日本ツアー。キリンオープンでデビュー戦を飾った1996年に、プロテストに合格。2年後の1998年に初シード入りを果たしたあと優勝こそなかったものの、コツコツと出場権を守ってきた。
2001年にシード権ぎりぎりの賞金ランク71位と低迷した時期にも、「税理士時代のような、地味な日々には戻りたくない」との思いを励みに、この9年間異国の地で辛抱強く戦ってきた。
参戦当初はいまの若手選手と同じように、米ツアーへの夢があった。日本ツアーを足がかりに、世界へと羽ばたく夢を見ていた時期もあったが、38歳を迎えた今となっては「そんな大きなことも言えなくなってしまいましたね」と、苦笑いを浮かべる。
9年の歳月を重ね、ようやく日本ツアーのチャンピオンに輝いた今、目標は「母国オーストラリアをベースに、日本ツアーで息の長い活躍を続けていくこと」だという。
「日本のみなさんはいつもほんとうに親切だし、日本ツアーが大好きなんですよ!」
プレーぶりに派手さはないが、確実にスコアを積み上げていくその几帳面なプレースタイルには、元税理士という経歴もうなづける。これからも持ち味のその堅実ゴルフで、存在感を示していくのだろう。
「日本で稼いだ賞金の税金対策は、78歳でいまも現役の父に任せてます」と、コンランは笑った。