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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

日本のゴルフの夜明けは明治時代の神戸で/ゴルフ昔ばなし

2019/05/01 07:32

2019年5月1日。きょうは令和時代の始まりの日です。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の対談連載「ゴルフ昔ばなし」は時の流れの節目に日本のゴルフ創世期について探ります。日本に最初のゴルフ場の原型ができたのは今から118年前の明治34年(1901年)のこと。兵庫・六甲山にある神戸ゴルフ倶楽部(1903年/明治36年開場)がすべての始まりでした。“聖地”とも言える当地を訪れ、歴史に目を向けます。

日本初のゴルフ場は“ノンゴルファー”がつくった

―ゴルフの起源については諸説あります。15世紀にはスコットランドで行われていたという話、それ以前にオランダやフランスで発祥していたという話。はたまた中国や古代ローマ時代にまでさかのぼるという説も…。そんな中、日本にゴルフが伝来したのは、まさに20世紀を迎えようとする時代でした。

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三田村 1868年(旧暦慶応3年)に明治時代が始まり、日本は幕末を経て外国人を多く受け入れる世の中になった。その年、開港した神戸にひとりのイギリス人青年、アーサー・ヘスケス・グルームがグラバー商会の一員として来航した。当時21歳。武器商人に始まり、貿易商として成功を収めた彼は神戸元町の山側、善照寺に住んでいた。
宮本 結婚したのは宮崎直さんという日本人女性。グルームさんは日本を第二の故郷にしたんだ。
三田村 彼は六甲山の自然を愛するようになり、避暑地として山荘を建てた。神戸居留地の彼の商館番号にちなみ「101」と呼ばれた山荘には、多くの外国人が集うようになった。ウイスキー片手に、商売だけでなく思い出話をする。その中で友人たちが母国でやっていたゴルフの話に花を咲かせた。実はグルームさん自身にゴルフの経験はなかったが、彼らの声を聞いて「じゃあ、ここにゴルフ場をつくろうじゃないか」となったんだ。それが神戸ゴルフ倶楽部の始まりになった。

宮本 神戸の港町から、この六甲山に上がるのは本当に大変だよね。しかも今みたいに道路も舗装されていない時代の話。こんなところに山荘をよく作ったなあ…とも思うし、神戸ゴルフ倶楽部にたどり着く道のりは、今でも細い山道ばかりで結構大変だ(笑)
三田村 イギリスでは当時、未開の地を切り開くというブームが成年男子の中にあったそうだ。人里離れた土地を開発していく開拓精神や好奇心、今で言うDIY(Do It Yourself)のハートが重んじられたんだね。その延長線上で、ひとりの男が山の中に別荘を、ゴルフ場をつくろうとしたエネルギーはすごいものがある。加えて、神戸をはじめ横浜などの居留区には当時、外国人が母国の文化を積極的に投入した。乗馬やテニス、ラグビーやレガッタといったスポーツは古くから彼らの生活に欠かせないもの。みんなで集まって体を動かす、アスレチッククラブなんかを日本でもつくろうとした時代背景も、日本のゴルフをスタートさせる力になったと考えられる。

最初はたったの4ホールで開場

―ゴルフ場づくりが開始されたのは、グルームがすでに50歳を超えた1898年(明治31年)のことでした。山を切り開き、岩を掘り起こして草木を伐採していく途方もない作業は3年続き、1901年(明治34年)の秋に4ホールが完成。神戸ゴルフ倶楽部を開場しました。

三田村 最初にできたのは4ホールだけ。もちろん最初は山荘に集まる仲間内で楽しむものだった。それが好評を博して2年後の1903年(明治36年)までに9ホールに増やし、本格的にオープンした。「たった4ホールだけ?」と思えてしまうし、スコアをつけるのも今とは勝手が違うようだけど、当時はまだマッチプレーがゴルフの基本だったからね。スコットランドにも昔は6ホール、9ホール、12ホール、多いところでは22ホールなんていうコースもあった。その後セントアンドリュースにならい、ストロークプレーが中心になって18ホールが定着したが、本来は18にこだわる理由もなかった。
宮本米国で最初にできたゴルフ場はニューヨークのセントアンドリュースGCというところで、1888年に3ホールだけで始まった。こちらもスコットランドからの移民、ジョン・リードたちはその後、リンゴ園でコースをつくった。彼らは“アップルツリーギャング”と言われ、ゴルフをひろめていったんだ。
三田村神戸ゴルフ倶楽部は1904年(明治37年)にさらに9ホールを増やして18ホールを完成させた。当時は現在のパーのことをボギーと呼んだ時代。3576yd、ボギー78だった。グリーンは当時、砂を固めてつくったサンドグリーン。芝じゃないよ(笑)。でも砂のグリーンはその昔、南アフリカの郊外やインドのコースにもあって、極めて珍しいというものでもなかった。
宮本 今もコース内にサンドグリーンをつくるためのローラーが置いてあるのが、なんともおもしろい。モノを作るときにはまず道具を開発するというけれど、斧もあったりする(笑)。それにしてもグリーンはその土地ごとにいろんなタイプがあっていいと思うけれど、日本のゴルファーはいつの間にかベントグリーンに強い憧れを抱くようになってしまった。米国のツアーでもたくさんの種類の芝のグリーンがあって、それがまたゴルフの魅力でもある。土壌に馴染むコースづくりがもっと尊重されてもいい。

始球式は“チョロ”だった

三田村 開場に当たり、神戸の商工会議所で総会が実施された。1903年5月24日の式典には英国領事のほか、兵庫県知事や神戸市長が参列した。すぐに行われた倶楽部選手権が日本で最初の競技ゴルフということになる。開場当時のメンバーは120人いたそうだ(現在は約450人)。
宮本始球式でボールを打ったのは、服部一三・兵庫県知事。当時の港町で日本人と外国人による地域社会における関係性がうまく行っていたことを物語っているように思う。商人気質で、関西独特の文化の影響もあったんじゃないだろうか。仮にこれが東京でスタートしていたら、また違う形になっていたような気もするね。
三田村 知事のショットは走って取りに行けるほどしか飛ばなかった、チョロだったそうだけど、グルームさんが自ら拾って倶楽部に保存した。それが今もクラブハウスの中に飾られているから、歴史の重みを感じられる。

宮本 クラブハウスの前には双眼鏡がある。当時、誰かが船から持ってきたと言われている。双眼鏡というと、実は“聖地”スコットランドのセントアンドリュースにもあって、クラブハウスの上から誰がコースのどこにいるか、というのを見るために備えているコースは少なくない。ただ、神戸では高台から港町が見える。双眼鏡で遠く海の向こうの母国に思いをはせていた外国人もいたかもしれないね。

神戸ゴルフ倶楽部は現在、18ホール全長4049yd(パー61)という独特の設定で運営されています。次回からはこちらのクラブハウスやコースへの潜入を進め、明治、大正、昭和、平成で刻まれた歴史を紐解きます。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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