東京タワーから世界のアオキへ/ゴルフ昔ばなし
外務大臣に直談判!右脳のアオキと左脳のジャンボ/ゴルフ昔ばなし
ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏がかつてのゴルフシーンを対談形式で懐古する「ゴルフ昔ばなし」。青木功選手は日本ツアーで通算51勝、1983年には米ツアーで優勝、以降は米シニアツアーで9勝を挙げ、2004年には日本人男子として初めて世界殿堂入りを果たしました。第6回は引き続き世界のアオキ伝説と、ライバル・尾崎将司選手との相違点を分析します。
■ 安倍首相の父に…青木功が「行かせてくれ!」
―「ハワイアンオープン」で日本人初の米ツアー制覇を遂げた青木選手は、同じ年に欧州ツアー「欧州オープン」で優勝。さらに1989年には「コカ・コーラクラシック」でオーストラリアツアーも制しました。国内だけでなく海外でプレーする情熱を持ち続けたことが、世界のアオキたる所以でもあります。
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宮本 青木さんはかつて、南アフリカのレジェンド、ゲーリー・プレーヤー(メジャー通算9勝)からいつも「南アに来て、試合に出てほしい」とオファーされていた。サンシティでの「ミリオンダラー(100万ドル)トーナメント」という大会で、賞金自体も当時は途方もなく高いトーナメントだったけれど、青木さんはただプロゴルファーとしてプレーしに行きたかった。1984年、当時の南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離政策)時代で、日本政府は渡航どころか文化交流も禁止していた。それでも、行きたい青木さんはどうしたか。当時の安倍晋太郎・外務大臣、つまり安倍晋三首相の父のもとに出向いて行った。「行かせてください!」という熱意に押された安倍外相は、ハンコを押してビザを出したんだ。
三田村 その大会が行われたのは12月。国内ツアーのシーズン終盤戦、青木が南アに行くことを決めた後、ツアー会場には人種差別撤廃運動に賛同する(南アのアパルトヘイトに反対する)一部の人々がプラカードを持って押し寄せた。
宮本 僕も長くゴルフツアーの撮影をしているけれど、ああいう緊張感に包まれた会場はなかった。青木さんには試合中もSPがついていたんだから。言葉は汚いけれど、本当に青木さんは“ゴルフバカ”だなあと思った。国交がない国に、普通は行こうと思わないでしょう。
■ 青木の抜群の記憶力とゴルフ脳
―青木功選手は、尾崎将司とともに日本ゴルフの2大スターでした。互いを意識し合い、自らを高めてきましたが、ふたりの人柄や性格に共通点や違いはあるでしょうか。
三田村 尾崎ってオモシロいな…と思ったのが、彼は自分の良いショットはあまり覚えていないんだ。雑誌の特集で「今年のベストショット5選」なんかを挙げてもらおうとしても、忘れちゃってて…。8位に入った1973年の「マスターズ」、ジャンボは16番(パー3)でティショットをピンそば80cmにつけたんだけど、その球筋もこっちが言って、やっと思い出すくらいなんだ。逆に青木は記憶力がすごい。ゴルフだけじゃなくて、麻雀でほかの人の捨て牌なんかもすごく覚えているんだから。
宮本 青木さんは自分のショットどころか、人のプレーもよく覚えている。ジャンボさんとのふたりの会話で「お前、あの時5番アイアンで打っただろう?」といった具合に。
三田村 青木さんは“天然キャラ”というのではなく、野生児っぽいんだ。彼はゴルフ場でいつもワクワクしている。昔、ミュアフィールド(英国)でカレンダーの撮影をした時、宮本が「ここで撮ります」と決めたホールがあった。すごいアゲンストの風が吹いていて、打ち下ろしのところでね。何カットか撮った後も、ずっと打っている。「見てろよ、こういうのはオレ、得意なんだ。パンチショットでまっすぐ打つぞ! ほら見ろ!」って…。
宮本 カレンダーの撮影なんだから、もういいわけ。ショットがまっすぐ行ったとか行かないとか(笑)。
三田村 そうしたら「今度は7番で…」とか言い出すんだから。そういう風に、本能でゴルフコースと楽しみ合うのが青木さん。雑誌でレッスンの連載をしていた頃、「パンチショットを教えてください」とお願いすると、僕を体の左隣に立たせて「お前、とにかく動くなよ」と言う。パーン!とフォロースルーを小さくして打って「はい、これがパンチショット」だって…。死ぬかと思ったなあ(笑)。
宮本 青木さんは試合と、試合でないときの垣根があまりない人。それでも試合中はカメラマンへのすごい圧力を感じた。遠巻きで撮った写真はつまらない、でもなかなか近づけない…。にじり寄っていくのに苦労した。カレンダーを撮影した時、急に「ティグラウンドに寝転んでみろ」とか言うんだ。僕の頭が吹っ飛ぶようなところに行かせると、急に眼が変わるのよ。確かに、そうするといい写真が撮れるんだけど…やってる方は…。
■ 野生児とオタク!? 青木と尾崎を分けるもの
三田村 ふたりのゴルフの作り方は正反対で。青木はパットから、グリーンから考える。尾崎はティショットでまずアドバンテージを取る。そこは徹底していた。そして青木は右脳のゴルフであり、尾崎は左脳…つまり感性でなく理性のゴルフを目指した。青木さんは例えば、強い向かい風を受けながらグリーンを狙うとき、「7番アイアンでパンチショットをしよう」と思ってクラブを握るのではなく、打ってから「あれ、オレ、いま7番でパンチショットしたわ」ということが、何回かあったそうだ。本能で、右脳でプレーする極みであり、ゴルファーとして長けているところだった。
宮本 青木さんはスパイク選びにも、その野性味があふれていた。フットジョイ(ブランド)のクラシックというソールが皮のモデルを履き続けた。当時で4万円以上したんだけど、1週間で新しいものに替えてしまう。そうでないと、ティグラウンドの硬さやフェアウェイの硬さが分からなくなってしまうそうなんだ。自分の足で歩いて、地面を感じながらプレーした。
三田村 そして、ゲーリー・プレーヤーの話に代表されるように、青木さんには心を通わせる名選手や業界人が本当に多くいた。ジャンボはね、どっちかって言うと“オタク”なの。部屋にこもって研究するのが大好きで、人付き合いは苦手。銀座で騒ぐよりは、家でコツコツやっている方が平和だ…という性格だね。
ライバルとして互いに時代を作り、日本ゴルフ界をけん引した青木と尾崎。実はある年の「マスターズ」の直前に、ふたりはオーガスタの同じ宿で一夜をともにしたことがあるそうです。そのエピソードは次回に。
- 三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
- 1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。
- 宮本卓 TAKU MIYAMOTO
- 1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」