樋口さん以来!ナオミの夢とヒデキの夢
2018年 日本女子オープンゴルフ選手権競技
期間:09/27〜09/30 場所:千葉CC野田コース(千葉)
メジャータイトルだけじゃない 樋口久子の功績/ゴルフ昔ばなし
前週、富山で行われた「日本女子プロゴルフ選手権」は申ジエ選手(韓国)が歴代女王に名を連ね、幕を閉じました。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の連載対談は、同大会で1968年の第1回から7連覇、「日本女子オープン」では5連覇、そして1977年に「全米女子プロゴルフ選手権」で海外メジャー制覇を遂げた樋口久子選手を特集中。本編の最終回は、レジェンドが日本ゴルフ界にもたらしたものについて語ります。
■ メジャー制覇を目撃した日本人メディアはただ一人
―女子テニスの大坂なおみ選手が「全米オープン」で日本人初のグランドスラム制覇を遂げました。さかのぼること41年前。樋口選手は「全米女子プロ」でゴルフ界に金字塔を打ち立てましたが、日本人ゴルファーが獲得したレギュラークラスのメジャータイトルとしては、いまだに唯一のものです。1970年代初頭に海外に武者修行に出向きましたが、当時、現地に日本の報道陣はどれだけいたのでしょうか。
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三田村 実は1977年の「全米女子プロ」で優勝を目撃した日本人はひとりだけだったんだ。牧野泰さんというカメラマンで、雑誌などの仕事をしていた。樋口さんが優勝したベイツリー・ゴルフプランテーションコースは当時、サウスカロライナ州の禁酒郡(ドライカントリー)、日曜日にアルコールを売らない地域にあったんだ。だから、試合後に車を走らせて、近くの州まで走って酒を買いに行き、それで祝杯を挙げたそうだよ。
宮本 牧野さんは1983年に青木功さんが「ハワイアンオープン」で米ツアー初優勝を遂げたときも、その場にいた。新聞社のカメラマンもたくさんいたんだけど、ほとんどの人が最後のチップインイーグルの瞬間を、グリーン上で待って撮影していた。まさか優勝するとは思わなかったからね。でも牧野さんは18ホールをついて歩き、PWでの奇跡のショットを青木さんの一番近くで撮ったんだよ。
三田村 牧野さんが言うには、樋口さんが優勝した試合も彼女は本当に冷静だったそうだ。残り4ホールくらいからキャディの方が落ち着かない様子だったらしい。優勝して日本に帰国した時は、それはもう大騒ぎ。飛行機が空港に降り立つ直前、機長のアナウンスがあったんだ。「全米女子プロ選手権で優勝した樋口久子さんが乗っていらっしゃいます。最初に降りていただきます」と。日本のカメラマンが祝福の花束を渡す算段だったんだけど、もみくちゃにされていたよ。
■ ビジュアルでも注目
―昨年現役を引退した宮里藍選手が登場して以降、日本の女子プロゴルフは爆発的な人気を得ました。同世代の横峯さくら選手や、さらに下の世代の選手たちはその華やかさも相まって、時代をけん引しました。
三田村 去年はアン・シネ選手(韓国)がビジュアル面で注目を集めた。女子プロゴルファーのウエアなどの見た目の派手さや華やかさは、いつの時代も実力抜きに話題にされることが多いし、様々な議論を呼んできた。でも、樋口さんは現役時代、その色鮮やかなウエアでも目立ったんだよ。派手なミニスカートで視線を集めた最初の女子プロだったんじゃないだろうか。そこには、やっぱり「アマチュアではない。人に魅せるのがプロゴルファー」という意識もあったのではないか。
宮本アン・シネもフィーバーになったけれど、そういう意味では日本女子ゴルフの創成期にローラ・ボーの人気はすごかったですね。カレンダーや写真集が日本でとにかく売れた。
三田村 父親が近代五種の五輪国代表になるアスリート家系で、本人も1971年の「全米女子アマチュア選手権」を優勝したが、プロではアルコール依存症も影響して1勝もできなかった。でも当時は大変な人気。実は両親が離婚してから、10代の時は厳しい生活を送っていた。フロリダのロングビーチにあった自宅を当時訪ねたことがあったが、路地裏のワンベッドルームに住んでいたよ。
■ 選手やLPGA会長として残したのは
―樋口さんは50歳の時、周囲に請われて日本女子プロゴルフ協会の会長に就任しました(1997年から2011年3月)。様々な改革に取りくみ、米国にならって年末の予選会(QT)を導入し、プロテストに合格していない若手や、海外選手にも出場権を付与することで、ツアーのレベルアップをはかりました。
宮本 アマチュア選手が年間に推薦出場する試合数制限を撤廃して、優秀な若手がどんどん出てくるようになった。宮里藍、横峯さくら、勝みなみや畑岡奈紗といった力のあるプレーヤーが生まれる土壌を作ったんだ。
三田村 米国選手が使うヤーデージメモや、残り距離の“歩測”を用いるようになったのも樋口さんがはじめだった。当時の日本のゴルフ界に、革新的なものを持ち帰ってきた。米国での経験をツアーのリーダーとしても、会長になってからも生かしてくれた。現役を退いてからも、米国では当時一緒に戦っていた女子プロたちが集まって、“同窓会”みたいなものがあるそうだよ。もちろん樋口さんもそこに招かれる。世界中からやってくるトップ選手たちは普段はライバルだけれど、仲間意識が本当に強かったんだと思う。
- 三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
- 1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。
- 宮本卓 TAKU MIYAMOTO
- 1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」