日本が誇る2人の年間グランドスラマー/残したいゴルフ記録
戦後のゴルフ界が“奇跡のグランドスラム”に沸いた/残したいゴルフ記録
国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介。今回は、7日間で2つの日本タイトルを手にした1950年の快挙を振り返ります。
時代背景とともに姿を変えるグランドスラム
本題に入る前に、ゴルフ競技のグランドスラムについて触れておきたい。これはボビー・ジョーンズが1930年、28歳のときに「全英アマ」「全英オープン」「全米オープン」「全米アマ」の当時4大タイトルを総なめにした快挙がきっかけとなって生まれた。現在、その対象は「マスターズ」「全米オープン」「全英オープン」「全米プロ」に変わったのは周知の通りだが、ジョーンズのような年間達成者はいまだ現れていない。
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日本ツアーでは、1975(昭和50)年に村上隆が「日本マッチプレー」「日本プロ」「日本オープン」「日本シリーズ」(タイトル獲得順)と、ツアーで初めて当時の4メジャーを総取りした。「日本マッチプレー」はこの75年に新設されたばかりであったが、そこは「日本」とタイトルがつく公式戦。新時代にふさわしい快挙として、時代とともにその価値観は高まっていったのである。
ツアー施行以前まで時代をさかのぼると、年間での公式戦4冠は、戦前の1939(昭和14)年に「日本オープン」「関西オープン」「日本プロ」「関西プロ」を制した戸田藤一郎が達成。当時は関西と関東がプロテストや公式戦をそれぞれの地区で開催し、対抗意識を燃やして競り合った中で生まれた快記録という背景があった。
わずか7日間で2つの「日本タイトル」
そんな時代の流れを踏まえたうえで、今回紹介したいのは、1950(昭和25)年に林由郎が作った「日本オープン」と「日本プロ」の2大タイトルをわずか7日間で手にした記録である。
この年の「日本オープン」は、第2次世界大戦の中断後から8年ぶりの復活大会として、10月2日(月)から千葉・我孫子GCで88人が参加して行われた。1日36ホールの2日間、72ホールのストロークプレー。我孫子をホームコースとする林は、「288」のイーブンパーで見事に優勝した。
さらに中1日を置いた5日(木)には、戦後2年目の「日本プロ」が同じ我孫子で開幕。58人のプロが出場し、林は2日間36ホールのストロークプレーをトップ通過すると、上位16人に絞られた2日間のマッチプレー準決勝で中村寅吉、決勝で小野光一を下して堂々の優勝。しかもメダリスト(予選1位)での完全優勝であった。なお、林は6年ぶりに復活した前年「日本プロ」(こちらも我孫子開催)も制しており、ホームコースの利を十分に生かしての大会2連覇であった。
何より、日本の2大公式戦を7日間で連勝するという快挙。そもそも中1日という想像し難いスケジュールは、我孫子GCが戦禍を免れていたこと、また早期の「日本オープン」復活開催が望まれていた時代背景によるものと推測できる。あわただしい復活大会のドタバタ感いっぱいの雰囲気だけに、なにか運命的なものを感じるのだ。
実は林。戦後復活の第1戦目となった1948(昭和23)年「関東プロ」で、プロ10年目にして初優勝を飾っている。「16歳でプロになっても戦争のごちゃごちゃで戦前はろくに試合にも出られなかったが、幸運にも優勝できた。26歳だった。周りは彗星のような林プロだ、と言っていた。私のゴルフ人生の始まりだった」と自著(「自由自在のゴルフ人生」講談社)にある。
公式戦の戦後復活大会で獲得した3つのタイトル。前述した通り、グランドスラムは時代の移ろいとともに、その姿や価値観を変えてきた。タイトル数は1つ足りないけれど、私はこれを“奇跡のグランドスラム“と称したいのだが、いかがだろう。“本場”のジョーンズも心から喜び、祝福してくれると思う。(武藤一彦)
- 武藤一彦(むとう・かずひこ)
- 1939年、東京都生まれ。ゴルフジャーナリスト。64年に報知新聞社に入社。日本ゴルフ協会広報委員会参与、日本プロゴルフ協会理事を経て、現在は日本エイジシュート・チャレンジ協会理事、夏泊ゴルフリンクス理事長を務める。ゴルフ評論家として活躍中。近著に「驚異のエージシューター田中菊雄の世界」(報知新聞社刊)など。