【WORLD】オーガスタのことならジャックに聞け。ニクラスの影響力
2012年 マスターズ
期間:04/05〜04/08 場所:オーガスタナショナルGC(ジョージア州)
【WORLD】26人が語る“オーガスタの思い出”
■ ニック・プライス
僕はいつもオーガスタナショナルには、月曜日の朝に入っていた。その日はチッピングとパッティングをして過ごし、午後4時ごろ、1人で9ホールをプレーしていたんだ。1980年代は、午後遅くなるとギャラリーもいなくなり、時に残ったプレーヤーが僕1人になることもあった。1986年、僕が1番ティーで準備をしていると、サム・スニードが歩いてきた。彼は僕に、一緒にプレーしてもいいかと聞いてきた。それから2時間半、彼はノンストップで話しつづけた。1946年に南アフリカでボビー・ロックと行った有名なエキシビションについて細かく話してくれた。ロックが16回のうち12回をどのように彼に勝ったかという話もあった。その後、もうひとつの話がある。9番で彼は、僕をアウトドライブしたんだ。これは僕にとっても彼にとっても驚きだった。僕はその年、第3ラウンドで63のコースレコードを出したけど、1986年のことを考えると、僕はサムとの9ホールを思い出すよ。
■ トム・レーマン
1993年、僕にとって最初のマスターズの第1ラウンドで、僕は少し早めに練習グリーンから1番ティーに向かった。と同時に、スコアカードとピンシート、ルールシートをもらったんだ。するとスターターがアナウンスした。「トム・レーマンがドライバーを打ちます」。僕はクラブとグローブ、ボールとティーを慌てて取りだすと、ティショットを急いで打って、左の林に入れてしまった。アンドリュー(キャディーのアンディー・マルチネス)が、「オフィシャルタイムよりまだ3分早かった」と僕に言った。だから僕はスターターにそのことをたずねたんだ。すると彼は言った。「レーマンさん、オーガスタナショナルでは、われわれのスタート時間でティーオフするのです」と。
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■ ギル・モーガン
ある年、私は選手バッジをなくしてしまった。最も悪いことのひとつだ。選手登録デスクに行って別のバッジをもらおうとしたが、それはたやすいことではなかった。4~5年後、私はオーガスタと書かれた住所から、ある荷物を郵便で受け取った。なんと、それは私のバッジだったんだ。マスターズウィークに借りていた家のオーナーの手紙によれば、バッジは洗濯機の周辺を掃除したときに見つかったらしいよ。
■ ジム・フューリック
オーガスタのメンバーである友人が、去年の2月、私を練習ラウンドに連れていってくれた。そのとき、私はこれまでクラブの見たことのない一面を見た。最も印象に残っているのはワインセラーだ。私はワインに詳しいわけではなく、自分の好みを知っているだけだ。それでもセラーはすばらしかった。ワインの名前を言えば、それがあるという具合だ。歴代チェアマンのパーソナルワインもあったよ。たぶん、飲まれることもないのだろうけどね。クリフォード・ロバーツのワインもあったよ。
■ スコット・ホーク
マスターズはいつも、選手に配布する家族やゲスト用のチケット数をきちんと把握している。だがある年、私の分が足りなかった。私はもう1つバッジが必要で、そのために最悪の方法を使った。T.O.ホークと言う家族の名前で1つをリクエストしたのだ。バッジは手に入った。でも、今打ち明けるとT.Oは家族の犬だった。T.Oは17年間、私たち家族と過ごしたので、それほど悪いことだとは思わなかったが。
■ ポール・ケーシー
友だちのフランシス・アゴのニックネームはマッド・ドッグと言う。数年前の水曜日、僕はファジー・ゼラーと練習ラウンドを回っていて、マッド・ドッグは僕たちについて歩いていた。11番グリーンで僕がパッティングをしているとき、ファジーはもう12番のティーに向かっていて僕を呼んだ。「マッド・ドッグはどこだ?」。僕はマッド・ドッグを探した。そして、ファジーはマッド・ドッグを観衆の中から引きずり出すと、僕のバッグからクラブを引き抜いて言った。「一発打って見せてみろ」。そこには300人くらいのギャラリーがいて、マッド・ドッグは緊張していた。だが、彼はすばらしいショットを打ち、グリーン奥の松葉の中に打ち込んだ。そしてラッキーなことに、ボールはグリーンのところまで戻ってきたんだ。観衆はそれを喜び、マッド・ドッグは大きな拍手をもらった。彼は背の高い男だから、僕のクラブを持ってこう言い放った。「ちょっと薄かったかな。お前のアイアンは僕にはちょっと短いんだよ、ケイシー」と。
■ ミラー・バーバー
1969年のマスターズで、私は優勝したジョージ・アーチャーに3打及ばなかった。信じられないことにボールを11発も池に打ち込んだにも関わらずだ。木曜日、5アンダーで12番を迎えた私のショットは、ピンハイにキャリーしたが、戻ってきて池に入ってしまった。続く13番でも、毎日グリーンにキャリーしたが、毎日「ライズクリーク」に落ちてしまったんだ。15番では最初の3日間、4番ウッドで打った私のセカンドショットはグリーンを捉えたが、やはり戻ってきて池につかまった。けれど、日曜日はそうならなかった。4番ウッドを少し強めに打ったからだ。ところが今度はグリーン奥のスプリンクラーヘッドにあたり、16番の池に入ってしまった。16番ではピンが左手前に切ってあったことがあり、ボールは右サイドのピンハイについた。ところがこれが左にスピンして池。さらに、日曜日には16番のティショットをキャリーで池に入れてしまった。これで11個のボールが池の中だ。ボールがすべて入らなかったとしたら、私は10打差で優勝したにちがいない。
■ ヘイル・アーウィン
バイロン・ネルソンとジーン・サラゼンが最後にパー3コンテストでプレーしたのがいつだかは知らないが、ある水曜日、練習ラウンドを終えて、一緒に回る人を待っていたことがあったんだ。すると、バイロンがジーンと一緒にいてこう言った。「お若いの、一緒にやるかい?」と。もちろん私はこれを受け入れた。最初のホールはすごく短くて、ロングピッチよりも短いくらいだった。私が覚えているのは、バイロンとジーンのクラブに添えた手。2人のグリップはすごく美しく、ナチュラルでパーフェクトだった。彼らはクラブを自分の体の一部のようにしていたのだ。アイアンしか打たなかったので、ドライバーのように力を入れることもなかった。私の一番はっきりしたマスターズの思い出は、バイロンとジーンがクラブを持っている姿であり、それでワッグルしスイングした姿だった。
■ ジョーイ・シンデラー
マスターズに初めて招待されたのは1985年だった。クラブハウスの周りを見渡すと、イーグルを出した選手に贈られたクリスタルのゴブレットがあった。スチューベン(アメリカの有名ブランド)のもので、私はそれがすごく欲しくなってしまった。
初日の1番で、私はアプローチをグリーンの左に引っかけダブルボギーを叩いた。しかしパー5の2番でイーグルを取ったんだ。嫌な気分から、いい気分になったよ。クリスタルのゴブレットを手に入れることができたからね。
■ フィル・ブラックマー
1998年、初日を終えて、私は首位から2打差につけていた。しかし、第2ラウンドは少しナーバスになっていて、何一つ正しいことができなった。ひどいショットか、それに近いことしかできず、フロントナインで42も叩いたんだ。10番ティーで私は一緒にプレーしていたポール・エイジンガーに言った。「バックナインはビールをかけてプレーするっていうのはどうかな?」。するとポールは、「僕が酒を飲まないのを知っているだろう」と言った。だが私は、「いずれにしても僕はビールのためにプレーするよ。もし、勝てたら今夜は飲むよ。もし、ダメなら飲まないよ」と続けた。バックナインは36でプレーし、予選は通過。ポールに勝ったかどうかは覚えていないが、その晩、ビールを飲んだことは確かだ。
■ スコット・シンプソン
私にとってオーガスタナショナルは、向かうことも後にすることも待ちきれない場所だ。コースは決してハードには見えないが、グリーンは私にとってフラストレーションのたまるものである。良いフィニッシュは1度しかしたことがない。けれども、ある年、パーカー・マクラクリンの父でバラク・オバマの高校時代のバスケットボールコーチだった友人のクリス・マクラクリンがキャディーをしてくれて、私は月曜日の遅い時間に9ホールをプレーした。周りには誰もいなかったね。風もなく、日が沈みかけており、木々の間から光が差し込みコースを照らしていた。われわれはしばらくの間佇み、クリスが言った。「教会のようだな」。まったくその通りだった。何かスピリチュアルな静けさと光が木々の間に漂っていた。2人のいい友だちがその中に静かに佇んでいるようで、とてもクールだった。