中嶋常幸のプロフィール
米ツアー転戦の先駆者・中嶋常幸の苦悩/ゴルフ昔ばなし
1970年代後半から青木功、尾崎将司の間に割って入り一時代を築いた中嶋常幸選手。日本ツアーで通算48勝を記録した一方で、80年代後半には戦いの場を米ツアーに求めました。インターネットもスマートフォンもない時代の海外生活。その旅に密着したのがゴルフ写真家・宮本卓氏でした。ゴルフライターの三田村昌鳳氏との対談連載「ゴルフ昔ばなし」は今回、当時の記憶を紐解きます。
■ 試合中のボールを蹴っちゃった…そこから始まった出会い
―中嶋選手は1982年、初めて賞金王のタイトルを獲得しました。青木功選手の5年連続戴冠を阻止。新しい時代を予感させ、1983年には「日本プロ選手権」「日本プロマッチプレー」など年間8勝をマーク。20代の後半で絶頂期を迎えました。
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宮本 僕は当時、アサヒゴルフ(1992年終刊)の写真部に所属していました。1983年の3月、「静岡オープン」で初めて取材に行った。ゴルフ場にたどりついたのはいいけれど、右も左も分からないような状態で…。そんな中、中嶋選手はしっかり上位でプレーをしていたんだが、終盤のホールでアクシデントがあった。優勝争いをしていた彼のボールが左サイドのラフに入った。それを知らずに歩いていた僕はそのボールを蹴っちゃったんだ…。周りのギャラリーも「うわー!」っと、ビックリ。初めて行ったトーナメントでプロのボールを蹴ってしまった。頭は混乱。「優勝してもスコアが抹消されたりするのか?」なんて考えてしまって…。もちろん、すぐに競技委員が来て、元の場所にボールは戻されてプレーは続行されたんだけど、「会社に帰れなくなるんじゃないか」「帰っても“打ち首”になるんじゃないか」って不安でいっぱいになったよ。
三田村 でも中嶋くんは、その試合でもしっかり優勝したんだよね。
宮本 トミーは僕が蹴っちゃったことを、覚えていないと言うんだけど。それが最初の出会いだった。会社に帰っても何とか無事だった。ただ、同じ年の5月「三菱ギャラントーナメント」で「とにかく密着してこい」という指示が飛んだ。「練習から何から、中嶋の一部始終を撮ってこい!」と言われるわけ。それが、練習中に近づいていくと彼から「うるせえ! フェアウェイを歩くなんて、10年早い!」って怒鳴られた。おっしゃる通り、だよね…。でも、トミーはその試合でも勝ってしまう。スターだなあと思った。
■ オーランドに買った自宅
―1985年には年間6勝をマーク。「ダンロップフェニックス」ではセベ・バレステロス(スペイン)やトム・ワトソンらを破って優勝。毎年、海外のタレント選手を招待してきた同大会で、史上2人目(全日空フェニックスを含む)の日本人王者となりました。翌1986年には「マスターズ」で優勝争いの末、8位。「全英オープン」ではグレッグ・ノーマン(オーストラリア)と最終日最終組で回り、こちらも8位でフィニッシュしました。
三田村ジャック・ニクラスが制した1986年のマスターズで優勝争いをしたが、グリーンジャケットに届かなかった。中嶋は当時、「サンデーバックナインで“最後の一歩を踏み出す”勇気と技術がどうしても足りなかった」と話した。その「どうしても越えられなかった自分」を押し上げたいという気持ちが強く、そのためには日本だけでやるには限界があると感じたんじゃないだろうか。
宮本 米国に渡ろうとしていた1987年の終わり、僕はすでにフリーのカメラマン。トミーに密着取材をお願いし、「いいねえ」と承諾を得て旅がスタートした。彼は現在の「アーノルド・パーマー招待」が行われるフロリダ州オーランドのベイヒルクラブ&ロッジ、15番ホールの脇の家を買ったんだ。僕はその一部屋を貸してもらって共同生活を始めた。ジャンボさん(尾崎将司)も当時、フロリダにコンドミニアムがあったが、中嶋はそうやって腰を据えてツアーを戦った先駆者だった。
■ 部屋の中でフルスイング…米国での苦悩の日々
―活躍を期待された中嶋選手は1988年、3月から米ツアー7試合連続で予選を通過し、奮闘しましたが、なかなか優勝争いに加わることができませんでした。8月の「全米プロゴルフ選手権」では3位フィニッシュしましたが、米国での転戦は苦労に満ちていたそうです。
宮本 お世辞抜きにして、当時の米国では今の松山くらいの注目度はあったんだよ。時代背景もあって、なかなか日本には伝わらなかったんだけど。日本での実績も十分。日本人で初めて4大メジャーすべてでトップ10入りを果たした(2人目が松山)。でも、何か越えられないものがあったようだ。
宮本 プロとキャディ、僕の3人の旅は孤独だった。今と違って、プロコーチという存在もいなかった。そんな中で彼は苦しんだ。フロリダでの「ドラール・ライダーオープン」という試合の期間中、選手はリゾートコース内にあるコンドミニアムに泊まる。ある日、トミーが部屋の中で「ベッドを壁にそって立ててくれ」と言うんだ。すると、ベッドに向かってボールを黙々と打ち始めた。2番アイアンでフルスイングするんだよ。彼は不安だったんだ。焦りと不安で、眠ることもできない。スイングに迷っても誰にも相談できない。PGAツアーって、外国人選手にとっては暇な時間が多いから。その時間をどう過ごすかが、すごく難しい作業。松山も同じ気持ちだと思うけれど、トミーの場合はパソコンもスマートフォンもない時代。情報量も乏しく、空き時間も球を打つくらいしかやることがなかったんだ。
■ 米ツアー撤退を決めた夜
―悩みに悩んだ米ツアー転戦生活。その終わりは突然やってきます。1989年の春。何かを悟ったような表情で、中嶋選手は日本に帰国する意思を固めました。
宮本 「全米プロ」では3位になった。結果は出していたが、トミーの心はボロボロだった。アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラス、ゲーリー・プレーヤーのビッグ3が目立った時代から、ノーマンやセベが大活躍する時代に移り、ゴルフはいっそう派手になった。彼らはショットを曲げても、どこからでもピンを狙う。トミーも必死に戦ったけれど…。4月の「マスターズ」を前にしたある夜、夕食から帰ると突然「宮本、おれは撤退する」と言った。僕は当時、写真を撮るだけでなく、日本のスポーツ新聞社なんかに中嶋の日々のプレーやコメントを送る通信員のような仕事もしていた。だから「日本のメディアにマスターズが終わったら撤退すると連絡してくれ」って。
三田村 それほど追い込まれていたということ。日本ではちょうどジャンボがカムバックして、2度目の黄金時代に入る時期だった。
宮本 オーランドの家に出入りするようになって、最初に言われたのは「どれだけくつろいでもいいが、クラブにだけは触らないように」ということだった。当時のプロにとって、クラブは武士の刀と同じ。それがね…撤退を決めたある日、朝起きると、暖炉の前にクラブがきれいに並べられてあった。「欲しいやつ、持って帰れ」って言うんだ。ひっくり返りそうな思いだった。あれだけ「触るな」って言っていたのに…。そりゃあ、ドライバーが欲しかった。トミーのプレーを支えたアイアンもカッコ良かった。でも、僕は言えなかったなあ。変な気をつかって、「スプーン(3W)を持って帰っていいですか?」って言うのが精いっぱいだったよ。
1989年の「マスターズ」を終えた後、中嶋選手は日本ツアーに本格復帰しました。その秋には東京ゴルフ倶楽部で行われた「日本オープン」で青木功選手、尾崎将司選手と死闘を繰り広げ、その後、スランプを経て復活します。「ゴルフ昔ばなし」の中嶋常幸編は次回が最終回。時代を作ったAONの関係性について考えます。
- 三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
- 1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。
- 宮本卓 TAKU MIYAMOTO
- 1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」