<佐渡充高の選手名鑑 115>エリック・コンプトン
2014年 RBCヘリテージ
期間:04/17〜04/20 場所:ハーバータウンGL(サウスカロライナ州)
光明が差した時(1) /ペイン・スチュワート
By Tom Alter, PGATOUR.COM
今年6月、ぺイン・スチュアートがパインハーストで行われた「全米オープン」で、劇的勝利をおさめてから15周年記念となる。しかし、25年前にスチュアートがあのハーバータウンで“あること”を起こさなければ、祝福などされなかっただろう。
18番ホール横に非常に大きいブロンズ像が立っており、足元は土を覆い隠すようにレンガで半円が描かれている。スチュアートがパインハーストのNO.2コース上で、空中に大きく拳を振り上げ、「全米オープン」勝利を喜んでいる姿だ。
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これは15年前のことであるが、今年6月に再び「全米オープン」はパインハーストに戻ってくる。世界中がスチュアートの功績を思い出し、称えるだろう。
スチュアート独自の勝利のポーズ、そして2位についたフィル・ミケルソンを励ます優しい人柄こそが、彼の選手としての最後の姿であった。彼が1999年の「全米オープン」で勝利を挙げてからまもなくして他界したことは、非常にショッキングであり、この勝利の価値をより一層高めると同時に、彼の銅像にも大きな影響を及ぼした。
そこから、およそ220マイル南に、ハーバータウン・ゴルフリンクス・イン・ヒルトンヘッド(サウスカロライナ州)がある。今週「RBCヘリテージ」が行われる会場だ。ここもパインハーストNo.2のように、全米トップクラスのゴルフコースである。
このコースでもスチュアートは勝利を挙げた。彼の劇的勝利からさらに10年前、スチュアートが苦しんでいた頃のこと。あの時“彼のイメージは?”と聞かれたら、プレーオフで敗れた1985年の「HPバイロンネルソンクラシック」終了後、野花の中を妻トレーシーと共に、夕日に向かって歩き去るビデオ映像を思い浮かべただろう。当時のスチュアートは2位で終えることが多く、日曜(最終日)の午後に本領を発揮できない選手であった。
しかし25年前の今週、スチュアートに大きな変化が起きた。1989年の「RBCヘリテージ」で勝利を挙げたことが、ゴルフ人生のターニングポイントとなった。そこから高評価を受けるようになった彼は、後に世界ゴルフ殿堂入りまで果たしたのだ。
“ヘリテージでの勝利”を、長年スチュアートのキャディを務めたマイク・ヒックスは振り返る。「そこから彼の選手キャリアは始まったんだ」。
ハーバータウン・ゴルフリンクスの18番脇には彼の銅像こそないが、あの勝利なくして、現在のパインハーストにあるスチュアート像は存在しなかったのである。
ウィリアム・ペイン・スチュアートはミズーリ州で父と共にゴルフをして育った。父・ビルは1955年に「全米オープン」でプレーするだけの実力を持った選手だった。スチュアートはサザン・メソジスト大学でゴルフをしていたが、卒業後、米国ツアーのQスクールを突破できなかった。そのため、プロとしてプレー出来る場所ならどこでもいいと、アジアで2年プレー。1981年の「インドオープン」、そして同年開催の「インドネシアオープン」で勝利を挙げた。
その年、彼はマレーシアでプレーをしていた。そこでオーストラリア出身の現妻・トレーシー・ファーガソンと出会った。スチュアートは1981年春の米国ツアーQスクールに合格。まもなく、彼の年代で最も知名度の高い選手の一人になる。
スチュアートは独自のスタイルを持っていた。丈の短いズボンに眩しい色の服、そしてつま先の尖ったゴルフシューズを履いていた。彼のルックスは「けばけばしい」感じだったが、非常に美しいスイングを見せる。上品で力強さがあり、彼の低位置から徐々に上がっていくティショットはまるで空高く昇っていくF-16のようだった。その舞い上がっていく弾道は、パーシモン製のドライバーと(糸巻きの)バラタ製のボールで快心の当たりから生み出されたのだ。
昔のゲームスタイルは今とは違っていた。良い選手ほど、ボールに出来る限りのスピンをかけようとしていた。スチュアートのボールは、空中でもスピンしている音が聞こえて来るくらいだった。
2年目にして米国ツアー初勝利を挙げたスチュワートは、1982年の「マグノリア・クラシック(非公式大会)」で優勝をした数ヶ月後、同年開催の「ミラーハイラフQCO」で最終日を「63」でラウンドし勝利を手にした。
次のシーズンでは、1983年「ウォルト・ディズニー・ワールドゴルフ・クラシック」で4ラウンド全てを「60」台で回り、2位のニック・ファルドを下した。スチュアートはこの年の賞金ランキングで25位入りを果たした。
彼はその後も数年は調子を保っており、好成績で知名度も上がったが、そこから今度は5年間で一度しか勝利を挙げられず(1987年アーノルド・パーマーインビテーショナル)、「勝てない選手」の噂がたってしまった。
確かに賞金ランキングでは、1986年に16位、1988年に12位と、次々にトップ10台を出した彼は、マネーメイキングマシーン(お金を作り出す機械)のようであった。1986年の3位を含め、トップ25より上位に着くようになった。そして1988年には全てのスタッツでツアーNO.1となった。
しかし、彼は勝てなかった。
スチュアートは3度メジャー大会で優勝するチャンスがあったが、毎回、最後の勝負どころで苦しんだ。米国ツアーでは4度プレーオフに持ち込むも全て負けに終わった(対ピーター・ジェイコブソン、ボブ・イーストウッド、ダン・ポール、そしてフィル・ブラックマー)。
そして、勝てない選手の印象はさらに強まってしまった。キャディ達は彼を「エイビス」と呼び始めた。なぜ「エイビス」か?過去にエイビスというレンタカー会社がジョークを交えて作った広告で一躍有名になり、そのジョークの落ちが「僕らはNo.2」だったのだ。
同じPGAツアーで親友の1人だったジェイコブソンは、彼も過去に同じような経験をしていることから、スチュアートの気持ちをよく理解していた。
「誰にでも停滞期はあるものさ」とジェイコブソン。「そこで皆は、『ここまでか?まだ25才なのに、30才なのに・・これがベストなのか?』と考え始めるんだ」。
「ペインは忍耐力があるから、そこで戦い続けられた。本当に頑張ってたよ、あの『エイビス』のレッテルを剥がそうと必死にね」と続けた。
スチュアートは“チーム”を作り、それが彼のキャリアに非常に良い影響をもたらした。そこから一層熱が入ったのだ。
1988年春、スチュアートはヒックをキャディとして雇い始めた。それから彼は定期的に、スポーツ心理学の先駆者であるリチャード(ディック)コープ博士との対話も取り入れた。
スチュアートは徐々に、試合の詰めを上手く締められるようになった。もう「エイビス」とは呼ばれたくなかったのだ。
「本当に嫌だったんだろうね」とコープ。「彼は誰にもそれを見せなかったけれども。まあ彼もキャディ達のことを、好きに呼んでいたけどね」。
「それでも心が痛かったよ」とジェイコブソン。「だって、2位は3位よりもマシなんだから」。
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