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<選手名鑑150>アレックス・チェイカ(前編)

■ 44歳287試合目――鎮魂の初優勝

3月8日、悪天候の下で行われた「プエルトリコオープン」最終日。ドイツのアレックス・チェイカ(44)は4.5メートルのバーディパットを決め、5選手による激戦プレーオフを制して優勝。その瞬間、両手で頭を抱え、グリーン上にひざまずいた。プロ転向26年、米PGAツアーデビューから13年が経過した287試合目、44歳での初優勝だった。「ながいながい歳月を要し、この気持ちは言葉で言い表せないが、私の魂が鎮まったことは間違いない」と感激した。喜びを「魂が鎮まる」と表現した背景には、チェイカの数奇な人生の歩みがあった。

■ チェコからドイツへ 9歳で父と決死の亡命

チェイカの人生の岐路は “決死の亡命”だった。1970年12月2日、当時のチェコスロバキア共和国マリエンバードで生まれたチェイカ。チェコはヨーロッパのほぼ中央に位置し、西半分がドイツ、北東はポーランド、南はオーストリアとハンガリーに接する。神聖ローマ帝国、オーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、ナチス・ドイツ、ソ連の影響を、長い歴史の中、受け続けてきた。第一次大戦後の1918年、チェコとスロバキアが一つになりチェコスロバキア共和国として独立。しかし1993年、政策や権限分配で対立を深めた連邦は解散し、チェコ共和国となった。

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生まれ故郷であるマリエンバードは、首都プラハから特急列車で西へ約3時間。西側のドイツからチェコにかけて広がるボヘミアの森の中にある。標高650メートルほどの緩い高地で、古代から有数の温泉保養地として知られる街だ。

チェイカが生まれた70年代は、チェコスロバキア社会主義共和国となり、共産党体制の改革を目指す「プラハの春」が起こった直後だった。西側化を恐れたソ連が、ワルシャワ条約機構軍を介入させてこれを鎮圧させた。しかし政情や経済は混乱し、食糧一つ買うのに、数十メートルも並ばなければならない状態だった。

父アレックスは貿易関係の技術者だったが、家族が生活できるだけの十分な収入がなく、音楽関係のアルバイトで副収入を得ながらも、生活は貧窮していた。将来への夢や希望を抱けず、生きることさえも難しいと考え、父はひそかに亡命の計画を立てたのだ。大陸を南下し、オーストリアを経て、ユーゴスラビアへ。そこから西に向かってイタリアに入り、さらに北上すれば永世中立国スイスに到達する。その北部には、目的地であるドイツがある。3カ国の国境を越える、命がけの亡命計画だった。

チェイカが9歳を迎えた1979年、彼は何も知らされず、父の腕に抱かれて郊外へ逃れた。列車に乗り、何日も歩き続け、川を泳いで渡り、海岸に座礁した古い小船の陰で夜を明かしたこともあった。ユーゴスラビア、イタリアと国を渡り、心身の限界寸前でようやくスイスに到着した。「その時、父は私を強く抱きしめ、『やったぞ!』と叫び、泣いていた。その姿を見て、初めて単なる旅行ではなかったこと知った。途中で捕えられていたら銃殺されていただろうね」と、当時の様子を振り返った。その後、ドイツのフランクフルトに辿り着いたのだが、さらに驚くことがチェイカを待っていた。それは実母(父とは離婚)との再会――実母はすでに1人で亡命を成功させていたのだった。

■ ゴルフ 極貧の中で見つけた希望

新天地ドイツでも、また別の苦難が待っていた。所持金はなく、ドイツ語もままならない。チェイカは、父の親友が経営するミュンヘンのレストランの屋根裏部屋で暮らし、父親が皿洗いをして金を稼いだ。

生活にもようやく慣れはじめた2年後の1981年、極貧状態からは解放され、心身に余裕もできた。レストラン近郊には、庶民の憩いの場所である自然豊かなゴルフ場があった。チェイカが11歳になった頃、父から「ゴルフを習ってみないか?」という誘いに応じるかたちで、ゴルフと出会った。そんな彼にゴルフを教えることになったのが、ミュンヘンGCの所属プロであるビル・プリングルという人物で、父が働くレストランの常連客でもあった。

習い始めると、ゴルフの楽しさに魅了されたチェイカはグングンと上達。才能が開花したかのように、近隣ジュニアで彼に敵う者はいなくなった。ゴルフをはじめて4年後の15歳の時、人生を変える出来事が起こった。フランクフルトで行われた「ドイツオープン」で、初めてプロの試合を観戦した。その大会に出場していた故セベ・バレステロスベルンハルト・ランガーのプレーに魅了され、将来はプロになることを決心すると、これまで以上に練習に励むようになった。

当時のチェイカは国籍がチェコスロバキアだったため、ドイツのアマチュアチームではプレーが出来ず、その悔しさもエネルギーになった。翌年にはハンディ“0”まで上達。1989年、18歳を迎えたチェイカはプロ転向を果たし、いよいよ旅立ちの時を迎えた。(後編へ続く)

佐渡充高(さどみつたか)
ゴルフジャーナリスト。1957年生まれ。上智大学卒。大学時代はゴルフ部に所属しキャプテンを務める。3、4年生の時に太平洋クラブマスターズで当時4年連続賞金王に輝いたトム・ワトソンのキャディーを務める。東京中日スポーツ新聞社を経て85年に渡米、ニューヨークを拠点に世界のゴルフを取材。米国ゴルフ記者協会会員、ゴルフマガジン「世界トップ100コース」選考委員会国際評議委員。元世界ゴルフ殿堂選考委員。91年からNHK米ゴルフツアー放送ゴルフ解説者。現在は日本を拠点に世界のゴルフを取材、講演などに飛び回る。

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